おはようございます。「翡翠の隠れ家」を運営している、たーです。
今回は、「風鈴の記憶」という長編ストーリーの第2話をお届けします。
テーマは「記憶」と「ぬくもり」。
忘れてしまっても、心に残り続けるものがあります。
それは、夏の音や、手のぬくもり、そして小さな約束のような――。
この物語を通して、誰かとの静かな時間を、ふと思い出してもらえたら嬉しいです。
第2章「再会」
病院のロビーで待っていると、母がそっと声をかけてきた。
「……着いたみたい。真央、行けそう?」
深呼吸をひとつ。真央は小さくうなずいて、病院の奥へと足を踏み入れた。
案内されたのは、療養型の病棟。個室ではなく、数人が共同で過ごすスペースのある、明るいけれどどこか淡々とした空気の場所だった。
その一角に、いた。
白髪に軽くウェーブのかかった小柄な女性が、窓の外をじっと見つめている。
背筋はかつてよりも丸まり、手元には毛糸の膝掛け。どこか遠くにいるようなその表情に、真央は一瞬、声をかけることをためらった。
「ふみさん……」
小さく呼びかけると、その女性はゆっくりと顔を向けた。
――間違いない。
その目元の優しいカーブ、唇の形、微かに残る笑いジワ。
何年も会っていなくても、体のどこかが“この人だ”と確信していた。
けれど、ふみさんの瞳には、真央の姿が映っていなかった。
「こんにちは……どちら様?」
その言葉に、胸の奥が、すぅっと冷えていく。
ああ、やっぱり――思っていた通りだ。
だけど、こんなにも、堪えるなんて。
真央は無理に笑顔を浮かべた。
「私、真央です。……昔、隣に住んでいた真央って、覚えてますか?」
ふみさんは、目を細めて真央の顔をじっと見た。
そのまま数秒の沈黙。やがて、ゆっくりと首を横に振る。
「ごめんなさいね……なんだか……思い出せないの」
謝らなくていい。
分かってた。記憶の病気なんだもの。
そう言い聞かせても、心はうまくついてこなかった。
でも――目を落とした瞬間、真央はふと、ふみさんの膝の上に置かれているものに目を留めた。
それは、小さな、布の巾着袋。
――まさか。
思わず顔を近づけて覗き込む。
淡い桜色の布。角に、小さな刺繍の花。ほつれた縫い目が、真央の記憶と一致した。
「これ……!」
声が震えた。
ふみさんが、あの日別れ際にくれたもの。
「あなたとの思い出に」――そう言って手渡された、大切な袋。
中には、あの時のままの小さな風鈴が入っているのだろうか。
「ふみさん、これ、覚えてますか?」
真央が巾着袋に触れながら尋ねると、ふみさんは少し首を傾げた。
「これ……ええと……ね、誰かがくれた気がするの。優しい子だったのよ。たしか、よくお花の名前を一緒に言って……でも、どうしても思い出せないの」
言葉は遠く、けれど心は近かった。
ふみさんの記憶の中には、まだ“誰か”がいた。真央のことが、完全に消えてしまったわけじゃない。
真央は微笑み、巾着袋をそっとふみさんの手に戻した。
「……また、会いに来てもいいですか?」
ふみさんは少し驚いたように見えたあと、優しくうなずいた。
「……ええ、来てくださると、嬉しいわ」
その言葉に、涙がこぼれそうになる。
たとえ名前を呼ばれなくても。
たとえ今日の記憶が、明日には消えてしまっても。
ふみさんの手が、この巾着袋を握っていた。
そのぬくもりが、真央の心に確かな明かりを灯した。
続く…
※この物語はフィクションです。
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