タイ ― まだ花が咲く前の物語

夕方の光が、カウンターの木目をやさしく照らしている。
あなたはいつもの席に腰を下ろし、
店主が棚の奥から豆袋を一つ取り出すのを眺めていた。
「今日はね、
“まだ完成していない国”の話をしようと思う。」
そう前置きして、
店主は袋をそっとテーブルに置く。
―― タイ。
コーヒーにも、向き不向きがある
「コーヒーの木には、いくつか性格の違いがあるんだ。」
店主はそう言って、
難しい言葉は使わずに説明を始める。
ある種類は、
苦味が強くて、しっかりした味。
大量に作りやすく、
長いあいだ“実用向き”として使われてきた。
タイのコーヒーは、
これがほとんどを占めている。
だから、
インスタントコーヒーの原料として
知られてきた歴史がある。
それでも、もう一つの可能性
「でもね、
全部がそうだったわけじゃない。」
店主は少し声を落とす。
香りがやさしく、
口あたりがなめらかで、
花のような印象を持つコーヒー。
量は少ないけれど、
そういう“丁寧に味わうための豆”も
タイでは育てられてきた。
1970年代、
この可能性に期待が集まった時代があった。
途中で止まってしまった時間
木は植えられた。
でも、
それを支える仕組みは続かなかった。
「続ける理由が、
だんだん見えなくなってしまったんだろうね。」
味よりも効率が優先され、
花の気配は、
長いあいだ語られなくなった。
そして、最近の変化
店主は、
袋の口を少しだけ開けて香りを確かめる。
「ここ数年で、
また空気が変わってきている。」
タイのコーヒーに
目を向ける人が増え、
農園に手をかける動きが戻り始めた。
量は少ない。
でも、
確かに“味を大切にした豆”が
生まれ始めている。
想像している一杯
もし、
そうした豆に出会えたなら。
口あたりは、きっとやさしい。
酸っぱさは控えめで、
飲み進めるほど、
花のような香りがふっと現れる。
「主張しすぎないけど、
ちゃんと印象に残る味。」
店主は、
そんな言葉を選んだ。
翡翠の隠れ家で焙煎するとしたら
「強く焼きすぎたら、
この良さは消えてしまう。」
だから、
火はやさしく。
香りが逃げないように、
少し待ちながら、
じっくり仕上げる。
完成させるというより、
“見守る”焙煎になりそうだ。
まだ、決めない
この豆を、
翡翠の隠れ家で扱うかどうかは
まだ決めていない。
「この国のコーヒーは、
まだ途中だから。」
完成した答えより、
変わり続ける物語を
大切にしたい。
タイのコーヒーについて(やさしいまとめ)
- 世界全体では、まだ少数派の生産量
- 苦味のしっかりした豆が中心
- 一部で、香りのやさしい豆づくりが再び始まっている
- 収穫期:10月〜3月
まだ、
カップは出てこない。
それでも、
この話を聞いたあとなら、
タイのコーヒーという言葉に、
少しだけ、
花の気配を感じられるはずだ。
ここでは、
コーヒーはいつも、
出来上がる前の物語から始まる。
翡翠の隠れ家 店主


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