おはようございます。「翡翠の隠れ家」を運営している、たーです。
今回は、「風鈴の記憶」という長編ストーリーをお届けします。
テーマは「記憶」と「ぬくもり」。少し長い作品なので4話にして毎週月曜日の朝お届けします。
忘れてしまっても、心に残り続けるものがあります。
それは、夏の音や、手のぬくもり、そして小さな約束のような――。
この物語を通して、誰かとの静かな時間を、ふと思い出してもらえたら嬉しいです。
第1章「夏の縁側」
風鈴が、ちりんと鳴った。
それは、記憶の中で何度も響いた音だった。
真央が小さかった頃、毎日のように聞いていた、涼やかで、どこか寂しげな音色。あの家の縁側で、風とともに鳴るたびに、心が落ち着いたのを覚えている。
当時、小学生だった真央は、放課後の時間のほとんどを隣の家で過ごしていた。両親は共働きで、家には誰もいない。鍵っ子という言葉にどこか寂しさを感じていた頃、救ってくれたのが、隣に住んでいた「ふみさん」だった。
「おかえり、真央ちゃん。今日は暑かったねぇ」
玄関を開けると、優しい声と一緒に甘いお菓子の匂いが漂ってきた。ふみさんは70歳を超えていたけれど、背筋はしゃんとしていて、動きも軽やかだった。庭の草木の手入れが好きで、季節の花の名前も、鳥のさえずりも、たくさん教えてくれた。
「この花、なあに?」
「これはアジサイ。梅雨の時期に咲くのよ。ほら、水をあげると嬉しそうでしょ」
ふみさんの家の縁側には、季節の花がいつも咲いていた。アジサイ、朝顔、金木犀、冬には椿。花の名前を教わりながら、真央は自然に微笑んでいた。時には一緒にクッキーを焼いたり、折り紙で星を折ったり。何気ない時間だったけれど、真央にとってはかけがえのない宝物だった。
「真央ちゃん、将来は何になりたいの?」
「うーん、ふみさんみたいになりたい!」
そう言った時、ふみさんは笑って、「それは困ったわねぇ。私はただのしがないおばあさんよ」と笑っていたけれど、真央は本気だった。
ふみさんのように、人を安心させるような存在になりたい。誰かの心に寄り添える人になりたい。子どもの頃に抱いたその想いが、やがて真央を医療の道へと導いた。
けれど、あの時間は、ある日を境にぷつりと終わってしまう。
中学に進学して間もなくの春。ふみさんが遠くの親戚の家に引っ越すことになったと聞かされた。
「急でごめんなさいね。真央ちゃんに会うのが、毎日の楽しみだったのに」
そのとき、ふみさんは真央にひとつの布の巾着袋を手渡してくれた。
淡い桜色の布に、小さな刺繍の花が縫い付けてある。中には小さな風鈴が入っていた。
「これは、あなたとの思い出に。いつか、また会えたらいいね」
別れ際、ふみさんはそう言って、縁側で手を振った。
真央は泣きながらその手を振り返し、声に出せなかった言葉を心にしまった。
「ありがとう、ふみさん。大好きだよ」
それが、真央がふみさんに会った最後の日だった。
* * *
その記憶を思い出したのは、母からの何気ないひと言がきっかけだった。
「そうそう、真央。あのね……ふみさん、こっちの施設に移ったらしいのよ」
「えっ?」
思わず手にしていたカップを落としそうになる。
ふみさんが、またこの町に?
「でもね、もう……かなりお年を召して、ちょっと認知症が進んでるみたいなの。今は『すみれ苑』っていう老人ホームに入ってるって」
真央の胸の奥が、ぐっと熱くなる。あの時交わした「また会えたら」という約束が、思い出の中だけでは終わらないかもしれない。
すぐにでも会いに行きたい。でも、ふみさんは真央のことを、もう覚えていないかもしれない。
それでも構わない。――真央はそう思った。
「会いに行くよ、ふみさん。私が、あなたのことを覚えてるから」
続く…
※この物語はフィクションです。
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