
駅前の細い路地を進んだ先に、その店はあった。看板には小さく「夢売りの店」と書かれている。
「夢を……売る?」
仕事帰りの涼介は、妙に気になって足を止めた。最近は忙しさに追われ、寝ても朝まで一瞬だった。夢を見た記憶すらない。
試しにドアを押すと、店内には静かなジャズが流れていた。カウンターには、白髪混じりの店主らしき男が立っている。
「いらっしゃい。夢をお求めですか?」
「夢って……どういうことです?」
店主は棚から小さなガラス瓶を取り出した。中には淡い金色の光が揺らめいている。
「これは『海を渡る夢』。夜の海を歩き、やがて空へと昇っていく、とても気持ちのいい夢ですよ」
「まさか……夢を買えるんですか?」
「そういうことです」
涼介は半信半疑のまま、別の瓶を指差した。
「これは?」
「『大切な人と再会する夢』。現実では叶わない別れも、夢の中ならもう一度話せます」
涼介は息をのんだ。
思い浮かんだのは、数年前に亡くなった祖父のことだった。
小さい頃、祖父の家に行くたびにコーヒーを淹れてくれた。祖父の手で挽いた豆の香り、湯気が立つカップ、笑いながら話す温かな時間——でも、大人になってからは仕事に追われ、会いに行くことも減った。
最後に会ったのは、祖父が入院する直前だった。
「たまにはゆっくりしろよ」
そう言われたのに、「今は仕事が忙しくてさ」と適当に返事をした。
その後、祖父が亡くなったと聞いたとき、すぐに駆けつけることもできなかった。通夜の席で線香を上げながら、「またコーヒーを飲もう」と言った祖父の言葉を思い出し、声も出せずに泣いた。
もっと話せばよかった。もっと会いに行けばよかった。
でも、もう遅い。
涼介は震える手で瓶を握った。
「……この夢をください」
店主は頷き、小瓶を紙袋に包んだ。
「枕元に置いて眠れば、夢が訪れます」
***
目が覚めると、懐かしい木の香りがした。
見覚えのある縁側。夏の風が吹き抜ける廊下。
「……嘘だろ?」
目の前には、祖父がいた。
あの頃と変わらない笑顔で、コーヒーを淹れている。
「よく来たな。忙しいのか?」
その声を聞いた瞬間、胸が締めつけられた。
「じいちゃん……」
言葉が詰まり、声にならない。
「ほら、座れ。いつものコーヒー、淹れてやるよ」
祖父が差し出したカップを、震える手で受け取る。
ゆっくりと飲むと、懐かしい味が広がった。
「じいちゃん……ごめん……」
涙が溢れた。
「もっと会いに来ればよかった。もっと話したかった。なのに、俺……」
祖父は静かに笑い、涼介の肩を叩いた。
「いいんだよ。お前はお前の人生を頑張ってる。それでいい」
「……でも」
「ただ、一つだけ覚えておけ。人生はな、そんなに急がなくていいんだ。時々、こうしてコーヒーでも飲んで、ゆっくりする時間を作れ。それだけで、だいぶ楽になるもんだ」
祖父の言葉は、まるで心の奥深くにしみ込むようだった。
「……また、ここに来てもいい?」
祖父は少し寂しそうに笑った。
「夢の中なら、いつでもな」
***
目が覚めると、枕元の小瓶は消えていた。
でも、手のひらにはまだ、温かな感触が残っていた。
カーテンを開けると、朝日が静かに差し込んでいた。
ふと、祖父の言葉を思い出し、久しぶりにコーヒーを淹れることにした。ゆっくりとお湯を注ぎながら、深く息を吸う。
「……うん」
胸の奥に残っていた後悔が、少しだけ、和らいだ気がした。
おしまい
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