こんばんは。「翡翠の隠れ家」を運営するたーです。
いろいろと業務が立て込んでいて、ひっさしぶりの投稿となってしまいました。💦
少しずつですが、焙煎の勉強と練習をしながら売り物にできるコーヒーを日々作っています。
久しぶりの投稿はコーヒーを片手に気軽に読める短編ストーリーです。最後までお楽しみください。
『雨のち、コーヒー』

喫茶店「翡翠の隠れ家」は、静かな住宅街の外れに佇む小さなカフェだ。 翡翠色の木製の扉と緑に包まれた外観が、日常の中にぽっかり空いた秘密の入り口のようだった。
店内には、珈琲の香りとジャズの音楽。そして、常連たちの記憶がそっと息づいていた。
ある雨の日、結衣はふとその店を思い出し、数年ぶりに扉を開けた。
「……懐かしい」
学生時代、心が疲れた時によく通った場所。 当時の自分が何かを求めていたことだけが、今でも記憶に残っている。
マスターがゆっくりと微笑んで、言った。 「お帰りなさいませ」
カウンターの端、いつもの席に腰を下ろす。 変わらないカフェオレの香り。変わらないチーズケーキの甘さ。
ふと、棚の一角にある木製の箱に目が止まった。そこには、かつて存在していた“読者ノート”が今も置かれていた。
自由に物語を書いても、感想だけ書いてもいい、小さな自由帳。 あの頃の自分が綴った、小さな短編がそこに残っているかもしれない。
開いてみると、ページの間に、1枚の紙がはさまっていた。
そこには、彼女が書いた小話をモチーフにした、美しい鉛筆画が添えられていた。
少女が雨の中で、コーヒーを飲みながら誰かを待つ――そんな物語。
その絵には、言葉では描けない余白と温度があった。 結衣は、心が静かに震えるのを感じた。
「……読んでくれてたんだ」
その日から、結衣は時折「翡翠の隠れ家」に通うようになった。
そして、ある雨の日。窓際の席で、1人の男性がスケッチブックを開いていた。
横顔に、見覚えがあった。
恐る恐る声をかける。
「……すみません。あなた、もしかして……」
彼が顔を上げる。
「……あ」
目が合った瞬間、結衣は確信した。 彼が、この喫茶店で自分の物語に絵を添えてくれた人だ。
「昔、この店の読者ノートに……私、物語を書いていたんです」
彼の瞳が、やわらかく揺れた。
「読んだよ。何度も。……あの話、忘れられなかった」
彼の名前は相沢遼。今はフリーのイラストレーターをしているという。
遼にとっても、その小話は特別だった。
顔も知らぬ誰かが綴った物語。それなのに、不思議と胸に残った。 物語の行間から、その人の優しさや、寂しさや、願いが滲み出ていた。 「どんな人が、こんな話を書くんだろう」と、何度も思った。
その想いが、彼を絵へと向かわせた。
一方、結衣もまた、その絵を見て思っていた。
(この人は、きっと私の物語の奥を見てくれたんだ)
細部に宿る表情、雨のにおい、珈琲の湯気。 自分でも気づいていなかった感情が、そこに描かれていた。
「……ありがとう。あなたの絵で、あの物語が完成した気がしたの」
遼は、少し照れたように笑った。
それから、雨のたびにふたりは店で会った。 珈琲を飲みながら、学生時代のこと、書くことと描くことの話、夢の話をした。
些細な会話の端々に、言葉にならない気持ちがこぼれていた。 「また会えたら嬉しいな」 「君が来ると、店がちょっと明るくなるんだ」
結衣は、胸がほんの少し熱くなるのを感じた。 遼もまた、会話の合間に彼女を目で追っている自分に気づいた。
ある日、結衣はそっと一枚の原稿を取り出した。
「……小説を書いたの。今度は“誰かに届けたい”と思って」
遼は原稿を受け取り、静かに読んだ。
読み終えたあと、彼は微笑んで言った。
「挿絵を描かせて。……今度は正式に、君の物語の一部になりたい」
彼の言葉に、結衣の胸の奥がじんと温かくなった。
それから数か月後。
『雨のち、コーヒー』というタイトルの小さな本が完成した。 著:水野結衣、絵:相沢遼。
喫茶店「翡翠の隠れ家」の棚に、その本はそっと置かれている。
そして今も、雨の日になるとふたりはそこに現れ、新しい物語を静かに紡いでいく。
翡翠色の雨が降る午後。 あの日置いていった想いは、時を越えて、誰かと繋がっていた。
だからきっと、今日の一杯も、未来へと続く物語の始まり。
珈琲の香りのなかで、ふたりはまた、少しだけ照れながら、物語を紡いでいく――。
※この物語はフィクションです。
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