
― コーヒーを知らなかった紗良と、翡翠の隠れ家 ―
扉を開けた瞬間、温かな焙煎の香りがふわりと包み込んだ。
懐かしいわけじゃないのに、どこか安心する。
紗良はその理由がわからず、胸の奥がそっと揺れるのを感じた。
「いらっしゃい、紗良さん」
店主の声は、静かな夕暮れみたいに落ち着いていた。
カウンター席に座ると、紗良は少し気まずそうに笑った。
「…実は、コーヒーのことあんまり知らないんです。
香りが好きで来てるだけで…味の違いとか、よくわからなくて」
すると店主は、責めるでもなく、驚くでもなく、ただ優しく頷いた。
「知らなくていいんだよ。
コーヒーは覚えるものじゃなくて、感じるものだから」
その言葉のあと、店主は4つのカップをそっと横並びに置いた。
「今日は、ひとつのことだけ試してみよう。
――焙煎で、味がどう変わるのか」
それは授業でも講義でもない。
ただ、孤独な心を解きほぐすみたいな丁寧さだった。
■ 1杯目:ライトロースト(浅煎り)
口に含んだ瞬間、果実のような明るい酸味。
紗良は驚いたように目を丸くした。
「コーヒーなのに、酸っぱい…でも爽やか」
「始まりの一杯だ。
気持ちを前に進めたいとき、背中を押してくれる味」
■ 2杯目:ミディアムロースト(中煎り)
優しい甘さが広がる。
誰かの手の温もりみたいに安心できる味。
「さっきより落ち着く感じがします」
「そう。心が整いたい日に寄り添う焙煎だね」
■ 3杯目:シティロースト(中深煎り)
コクと苦味のバランスが調和し、深く息を吸うような感覚。
紗良は静かに目を閉じた。
「強いのに…ほっとします」
「迷いがあっても、しっかり立っていられるときの味だ」
■ 4杯目:フレンチロースト(深煎り)
苦味の奥に、切なさのような甘さ。
紗良は胸の奥を掴まれたように、息を呑んだ。
「…大切なものを、守りたいときの味、ですか?」
「そう感じたなら、それが正解だよ」
4杯飲み終えたあと、紗良は静かに笑った。
知識は増えたわけじゃない。
でも、心に触れたものがあった。
「焙煎って、味の違いじゃなくて…心の違いなんですね」
店主は頷き、少しだけ嬉しそうに目を細めた。
「今日の自分に選んだ焙煎度が、今の紗良さんだよ」
その言葉は、褒め言葉でも慰めでもなく、
ただそっと寄り添う灯りのようだった。
紗良は店を出る前に、深呼吸をした。
胸の奥で静かに眠っていた感情が、少しだけ動き出した気がした。
また迷ったら、ここに来ればいい。
そのときは今日とは違う一杯が、きっと寄り添ってくれる。

🌱 ここから少しだけ現実の話
久しぶりのブログ更新になりました。
11月に次女が産まれ、パパ休をいただきながら子育てをしつつ、焙煎の練習を続けています。
ネットショップへの出品準備も進めています。
今回は、焙煎度の解説を「物語」で届けてみました。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
焙煎も子育てもブログも、まだまだ成長途中ですが、
これからも「あなたの心に寄り添う一杯」を届けていきたいです。
また次の記事でお会いできたら嬉しいです。
ここまで読んでくださったあなたに――静かで優しい時間が流れますように。☕️


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