【オリジナル短編ストーリー】幸せのクローバー—妻との思い出をつなぐ場所

オリジナル短編物語

雨宿りの寄り道

 小雨が降る午後、橘(たちばな)は杖をつきながらゆっくりと歩いていた。

 最近、膝が痛み、長く歩くのがつらい。それでも、家にこもってばかりでは気が滅入るし、少しでも外の空気を吸いたかった。

 ふと、雨宿りできそうな店を探していると、小さな看板が目に入った。

 「翡翠の隠れ家——一息つきませんか?」

 コーヒーか……最後に飲んだのは、いつだったか。

 橘は懐かしい気持ちになりながら、扉を押した。


懐かしい味と記憶

 店内は木の温もりに包まれ、ゆったりとした時間が流れていた。

 カウンターの向こうで、店主の架乃(かの)が優しく微笑む。

 「いらっしゃいませ」

 橘は席に腰を下ろし、少し息を整えてから言った。

 「……ホットを、一杯」

 「かしこまりました」

 ゆっくりと時間をかけて淹れられたコーヒーは、香ばしい香りを漂わせていた。橘はカップを持ち上げ、一口飲む。

 ——その瞬間、遠い記憶がよみがえった。

 若い頃、妻と通った喫茶店の味——。

 「……懐かしいな」

 思わずつぶやくと、架乃が優しく尋ねた。

 「どんな思い出があるんですか?」

 「昔、妻とよく通った喫茶店があってな。深煎りのコーヒーが美味しくて……それに、店主が面白い人だった」

 橘は目を細める。

 「店主は、いつも『このカップの秘密、分かるかい?』って聞いてきたんだ」

 架乃が興味深そうに微笑む。

 「秘密……ですか?」

 「表面は何の変哲もないんだが、飲み終えると、底に小さな四つ葉のクローバーが描かれていたんだ。『最後まで飲んだら、幸せになれる』ってな」

 橘は静かにカップを見つめながら、そっと続けた。

 「その店は、もう随分前に閉店してしまったが……」

 そして、妻も——もういない。


雨上がりと、小さな奇跡

 コーヒーを飲み終え、橘は小さく息をついた。

 「美味しかった。また来てもいいかね?」

 「もちろん。いつでもお待ちしています」

 外に出ると、雨はすっかり上がっていた。

 その帰り道、橘はポケットの中の小さな布袋を触った。

 中には、妻が大切にしていた四つ葉のクローバーのチャームが入っている。昔、喫茶店の店主からプレゼントされたものだ。

 「幸せになれるおまじない、か……」

 妻が亡くなって以来、何となく持ち歩いていたが、最近では取り出すこともなくなっていた。

 ふと、店のカップの底を確かめなかったことに気づく。あの喫茶店と同じような細工があったのではないか——そんな気がして、橘はもう一度、店を訪れることを決めた。


つながる思い出——四つ葉のラテアート

 数日後、橘は再び「翡翠の隠れ家」へ足を運んだ。

 カラン、と扉を開けると、架乃が微笑んだ。

 「いらっしゃいませ」

 席に座ると、架乃がすっとカップを差し出した。

 「前回と同じものをお淹れしました。きっと、お気に入りの味だと思うので」

 橘は驚いた。

 「……覚えていたのか」

 「ええ。橘さんにとって、大切な思い出の味だと思ったので」

 ゆっくりとカップを持ち上げ、一口含む。深く、ほろ苦い味が舌の上に広がる。

 ふと、カップの中を覗いた橘は、目を見開いた。

 カップの表面に、小さな四つ葉のクローバーのラテアートが描かれていた。

 「……これは……」

 驚いて顔を上げると、架乃が静かに微笑んだ。

 「昔、お店を始める前に、お世話になった方から聞いたんです。『四つ葉のクローバーは、最後まで飲み干したら幸せになれる』って」

 橘の胸が熱くなった。

 ——もう、あの喫茶店のカップはない。けれど、この味と、この気持ちは、今もちゃんとここにある。

 ポケットから、四つ葉のクローバーのチャームを取り出す。

 「……これも、その喫茶店の店主からもらったものだ」

 架乃は目を見開き、そして、静かに微笑んだ。

 「素敵なつながりですね」

 橘はカップを両手で包み込み、そっと目を閉じた。

 ——最後まで飲んだら、幸せになれる。

 妻が隣で微笑んでいるような気がした。

 「また来るよ」

 「はい。お待ちしています」

 橘は微かに笑い、店を後にした。

 雨はすっかり上がり、空には柔らかな陽が差し始めていた。

おしまい。

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